Capture in the Lie.

感想とか色々

最愛の子ども(松浦理英子)

書かなきゃいけない修論を放り出して読んだ本。神様ごめんなさい。でもとても面白かった。ようやく感想の記事が書けるようになって安心している。

この本は数名の女子高生たちの物語。主人公の名前が何なのか、最後までよく分からなかった。注意深く読めばわかったのかもしれないが、その必要性が全く感じられなかった。それくらい客観性が徹底的に排除されたうえで詳細に語られる彼女たちの物語。ああここには、「女子」がいる。いつかの私や、友達だったあの子たちがここにいる。いつも楽しげに、そしてどこか疎ましげな彼女たちの日々を読みながら、まるで私自身もその場にいてそれらの出来事を体験していたかのような気分になった。

女子が多い集団はドロドロしている、表面上は仲が良くても水面下での諍いが絶えない。私たちは思春期を迎えるあたりから、自分のいる集団がそんな風に語られるのを耳にするようになる。やがて自らも口にし始める。そうなると末期だ。「女子は面倒だ、女子が集まるとろくなことがない」なんて、どうしてそんな風に自分たちのことを卑下しなければいけなかったのだろう。一体どうしてそんな印象を植え付けられてしまったのだろう。

ほんとうは、私たちは争いを望んでなどいない。争うことがあるとしたら、それは「女子」ではない誰かによって作られたシステムのためにそのようになっているだけだ。それは「大人からの評価」だったり、「異性にとって魅力的な順位づけ」だったり。私たちは「いい子」に見られたい。褒められたい。だけどそれ以上にただ毎日心地よく、楽しげに過ごしていたいのだ。女子高生たちはその欲求に忠実になり、楽しく過ごすために邪魔になる権力や存在を排除した、自分たちだけの楽園を作る。

そう、私たちは、学校の友達どうしで家族を作り、本物の家族よりも自分のことをよく理解してくれる存在としようとする。私にもかつて姉妹のような親友がいた。娘のような親友がいた。大人になったら同じ家に住み、そこでずっと楽しく暮らせたらいいのにね、などと言い合う親友たちがいた。この世に彼女たち以外の人間なんて必要ないのではないか、ずっとこのまま私たちだけで面白おかしく生きていけるのではないか。半ば本気でそう信じていた。

私たちは飢えていた。自分を理解してくれ、また自分がその相手を理解できる存在に飢えていた。本当は今もずっと飢えているのだろう。いつから何も感じなくなってしまったのか、それだけが分からない。

インターネットではしばしば、「女子になりたい」と発言する男性を目にすることがある。その発言を見るたびに、何故なのか、女子になってどうするつもりなのか、と問いただしたくなるのを私は抑えなければならない。彼らの発言の意図することが何なのか、本当のところは分からないが、きっと私が「小鳥になりたい」と言うのとあまり変わらないのだろう。つまり自分とは違う生き物になって、目の前の面倒ごとから手っ取り早く解放されたい。そんなところだろう。彼らにとって「女子」とは「小鳥」なのだ。人間ではない。自分と同じくらい、あるいはそれ以上の重責を背負った生きる人間だとは思わないらしい。

同じように、「私がもし男だったら、女心が分かるからすごくモテていたと思う」と発言する女性。そんなことはありえないだろう、と返してあげたい。あなたが女心を理解できるのはあなたが女性だからで、もしその記憶が保持されないまま男として生まれていたならその辺の男性と同じく女心を理解できない人に育っていたことだろう。あなたの人格がその性別とまったく独立に形成されてきたものとでも思っているのか。だとしたらなんて視野の狭いことだろう。

とりあえず、女子になりたい人にはこの本を読むことをオススメする。自分の人格のルーツを知りたい女性にもこの本をオススメする。

最愛の子ども

最愛の子ども

タバコのイメージ

 小説を書いていた時期があった。その時の名残でiPhoneやUSBに小説のネタとして使いたいメモ書きを溜める癖がある。今回、iPhoneのメモ帳の中に残っていたネタがちょっと面白かったのでここに載せてみようと思う。

 内容は「タバコの銘柄とそれを吸うキャラのイメージ」。私自身タバコを吸ったことがないし全然詳しくないためただの自分の中での妄想である。「もしタバコを吸うキャラを書く時があれば、こういう銘柄でこういう性格にしたい」的なメモ書き。

 

マルボロ…無害な若者】
・赤マル…ちょっとくたびれた男子。大学3,4回生、大学院生が研究室抜け出して吸いに行くのはたいてい赤マル。
・メンソール…チャラい大学生。真夏のビーチで水着+サングラス姿で吸ってそう。サーフボードを持たせればH&Mの広告になる。
・ライト…見様見真似で煙草を吸い始めたばかりの高校生(※創作の中だけの話です)、またはおとなしそうな女の子。「周りの人がこれ吸ってたから取り敢えず吸ってます」感が強い。

 

メビウス(マイルドセブン)…ヤンキー風の若者やイカツイおっさん(実際はいい人)】
パーキングエリアや道の駅の喫煙スペースにいるバイカーはたいていメビウス。粗暴に見えるが話してみるとただの人懐こくて旅好きないい人。

 

【セブンスター…湿気たオヤジ】
近所の空き地で子供達に「俺も昔はブイブイ言わせててなあ」とか「いつかもっとビッグになってやる」などと高弁を垂れる無職の中年。話が一息ついたところでくしゃくしゃの箱からセブンスターを取り出しありえないほど短くなるまで大切に吸いがち。

 

【トレジャーブラック…歓楽街で働くホスト、またはマフィア】
職業柄のパフォーマンスとして客の前などで吸うときに選ばれるのがトレジャーブラック。手に持ってるだけでつよそう。ただし家では勿体ないのでセブンスターやメビウスで済ませる(かわいい)。

 

【キャスター…若いOL】
バリバリのキャリアウーマンが仕事帰りにコンビニで買う煙草。顔見知りになった若い男性バイト店員と「また吸うんですか?ほどほどにしておいた方が…」「うっさいわね。良いから売りなさいよ」「はいはい…」などと会話してほしい(願望)。

 

ホープ…古き時代の労働者】
日に焼けた作業服+ヘルメット姿の男性が休憩時間に汗を拭きながら吸う。またはちょいワルばあちゃん(若い頃は超絶美人で男どもを手玉に取っていた)が指輪がめっちゃついたシワシワの手で取り出す煙草はたいていホープ

 

【キャメル…変わった人】
人の輪に入りたがらない無口キャラ(無造作ヘアー長身ガリガリ時々メガネ)が一人でスパスパ吸う煙草。天才肌の学者や作曲家、芸術家が集中力を高めるために何本も吸いそう。

 

【ピース…硬派で渋いオヤジ、または情の薄い若者】
・ショートピース…リッチな紳士、またはタバコ通でダンディなおっさん。葉巻やパイプも大好物。
ロングピース…変なこだわりがある中年。そこまで機能的でもなくデザインも古いような車やオーディオを愛着があるというだけで長く使い続けるタイプ。
・ピースライト…渋い趣味を持つ若者。生まれてもいないのに70年代頃の事を思い出して「昔は良かったなあ」と遠い目をしながらふかすのがピースライト。
・ピースインフィニティ…現代的な思考を持つ若者。自分にとって損か得かを冷静に勘定して動くべきだと考えているが、それを「ゆとり世代特有の思考」などと指摘されるとめっちゃむすっとする。

 

パーラメント…インテリおっさん】
中年おっさんがオフィスの喫煙所にて、やれ日本の行政がどうの経済情勢がどうのなどと小難しい話をしながら吸うのがパーラメント。賢くはあるが何事も批判したがるので周りからは疎まれがち。

 

 

 以上。我ながら喫煙という行為に特別な意味を期待しすぎだと思う。しかしやはり小説の中ではキャラの言動一つひとつが意味を持つものだと思っているので、特に意味もなくタバコを吸わせるということはありえない。タバコはキャラの持つストレスや苛立ち・依存的な性格の暗示であったり、抑圧からの解放あるいはハードボイルド的な雰囲気を持たせるためのアイテムだと思っている。

 ちなみに、現実世界では私は喫煙者を忌み嫌っている。生まれつき気管が弱いので、副流煙だけでも一瞬たりとも吸いたくない。だけど映画の中やドラマ・アニメの中ではタバコを吸う描写はすごく好きだ。渋いおじさんがタバコを吸うシーン、すごく色っぽい。オタクなので作品に出てくるキャラの愛用のタバコやお酒の銘柄を調べるとかは普通にやるし、そういうのすごく滾りますよね。

 もし将来タバコが人体に害だとして規制されたとしても、創作の中のタバコだけは駆逐しないでほしい。

GODZILLA 怪獣惑星

 とても楽しめた。良質のエンターテイメントという感じ。まだの人みんな観て。

 まず特撮ではなくアニメならではの設定や絵面が素晴らしかった。いかにもなデザインのスペースシャトル、防護服、近未来特有の技術、亜空間飛行等なんだか懐かしい匂いのするSF用語の連続。80年代のスペースオペラっぽさを感じた。そもそもポスターや公式サイトのコンセプトアートを見た瞬間から「なんかアシモフの表紙っぽさある……」と思っていた。SFの良いところの一つは、作り手が根っからのSFファンという点だと思う。このアニメ版ゴジラも「ぼくがかんがえた最強の……そういうやつ!」と目をキラキラさせた少年のような作り手側の純粋な喜びが感じられたし、それを感じられる自分でよかった、と思った。
 ただ、効果音が大きすぎて若干セリフが聞き取りづらかったというのがある。音がうるさい。一回の上映だけで耳が悪くなりそうだった。あと、なんとなく情報量の多そうな台詞(実際はエッセンシャルでない、無駄な言葉の羅列)をこれでもかと詰め込んで、観客を圧倒したりそれっぽさみたいなのを演出する手法はSFならではなのかもしれないけれど、正直どうかと思う。ハッタリみたいで正直言ってダサいし好きでない。私は天邪鬼なのでセリフを聴きなおすためだけにもう一度映画館に行くのはなんだか策にはまって負けた気になるし、Blu-rayを買おうと思っていた気持ちに水を差されたような感じになる。まあ買うんだけど……。
 『シン・ゴジラ』と比較するなら、この話はゴジラに対抗するのが人間社会の体制ではなく、むしろ人間社会の体制に反感を持つ若者が中心となっているところが大きな特徴で、私が注目したいポイントだ。その部分に、アニメという比較的若年層向けのコンテンツを選択した一番の利点が詰まっているように感じる。
 ゴジラ殲滅に向かうなか、主人公のハルオと上司にあたる若者(名前は忘れた)が「中央委員会の連中はとりあえず自分たちが死ぬまで安寧が続いてくれるなら良しとしている。奴らの席が空くまで待っていられない」といった旨の台詞を言い、私はその瞬間、「なんだ、これ日本のことだ」と思った。
 この映画が描いているのは、若者から見たまぎれもない今の日本のように感じた。前時代の人々が放り出した問題をさらに先送りしようとする指導者、天井打ちになっている階級構造、自主性・自己責任あるいは公共の利益のためという蓑に隠れた弱者切り捨て。どうしようもない閉塞感の中を漂いながら、どこに向かうべきなのかも分からないまま、現状がこれ以上悪くならないように打たれた手が悪手だとしてもそれを阻止するシステムが機能することはない。
 このゴジラは今の我々が抱える社会問題の擬獣化なのかもしれない。そんな気がした。私たちは日々感じている。かつての繁栄に慢心し驕った末に食らわされたしっぺ返しの長い長い後遺症を。確実に老いていくこの国に漂う、そこはかとない倦怠感や絶望感を。この映画は言語化されないまま深く根付いたそれらの思いを呼び起こさせる。
 ……いやまあ、そういう風に解釈してしまうと結局それらの解決策(=ゴジラへの対抗手段)が、若者による特攻とかになってしまうのでかなり辛いのですが。だが実際そういうところあるしなあ……(?)
 ちょうど今年は山田宗樹の『百年法』を読んだところだったのでそういう見方をしてしまったのかもしれない。だけど、それも含めてこの映画に対する私の素直な感想だ。
 アニメ版ゴジラ、それはSF大好きおじさんたちによる、日本の若者のためのゴジラ。私はそう考える。

書架の探偵(G. Wolf)

 ミステリにおける探偵役のキャラというと、論理的で感情の起伏が少なく、淡々と天才的な推理をするというイメージがあった。森博嗣のS&Mの犀川のような感じ。あるいは先日読んだ森晶麿の黒猫シリーズの黒猫とか。彼らはとにかく賢く、常に冷静に、客観的事実に基づいた推論を行う。そこに思い込みや感情などを持ち込むことはなく、あまり人間味が感じられない場合が多い。小さい頃はそんなミステリが少し苦手だった。以前の私はお話の中に出てくるキャラに感情移入できるかどうかでその本を読み続けるかを決めていたので、あまり人間味が感じられないキャラを好きになることができなかったのだ。今はそういう価値判断で読む本を決めないようになったが(今はキャラというよりストーリーやテーマが面白いかどうかに重点を置いている気がする)。

 だが、今回読んだ『書架の探偵』に出てくるアーン・スミスはそんな思索型の探偵キャラとは対極にいる人物だ。彼は元ミステリ作家、正確にはミステリ作家として生きていた頃の記憶をクローンの体に刷り込まれた"リクローン(復生体)"で、図書館の書架に納められている。作品世界では過去の作家をそのようにして再生し図書館の"蔵者"として管理している。そんなスミスが一人の女性に貸し出され、彼女とその親族に関する事件に巻き込まれていき……といったストーリーだ。

 設定からもうだいぶ特殊だと思うが、実際とても面白い本だった。私にとってのおもしろポイントは二つある。一つは主人公のアーン・スミスのキャラクターがとても魅力的なこと。もう一つはストーリーがときにスリリングに、ときに難解に、あるいは突拍子もない展開に、と次々変化し飽きないこと。

 書架の探偵ことアーン・スミスのどこが良いというと、まず情緒が豊かなところ。彼は非常に口達者で、作家らしい言葉豊かな台詞回しが魅力的だ。自分の気持ちをいつもストレートに表現する。自分を貸り出した女性コレットの見た目の美しさや人柄の素晴らしさを讃え、彼女に好意を持っていることを率直に記す。自分を尋問する人物に対しても礼儀正しく振る舞い、ユーモアを忘れず、「あなたと争いたくはない、私はあなたに協力したい」とさえ言う。予期せぬ出来事に遭っては自分の判断力の愚かさを憂い、素直に無知を恥じ、彼の生前の妻であった詩人アラベラのリクローンと出会ったときには「私に必要なのはあなたの愛だけなのです」などということを臆面もなく口にする。語り口や言動の端々から人間味が滲んでいて、彼が喋って動いている場面がありありと浮かぶ

 だが、作品の中では彼はあくまでリクローンであり、純正の人間と同等の立場ではない。図書館が管理する所有物で、一定期間貸し出されない場合は焼却処分されるというなかなか過酷な運命にあるのだ。人権無視も甚だしい。そういった状況下におかれながら、それを受け入れてリクローンとしての立場を越えようとはしない姿勢もいじらしくて好感が持てる。

 次にストーリー展開。物語前半は世界観の説明などで殆どが消費されるのだが、その中でも一息つこうとするたびに何かとトラブルに見舞われる。『アリスSOS』なみに一話ごとにピンチになる感じ(喩えが古い)。そして物語後半では急展開。いきなり物理学や天文学の概念に話が飛んだかと思えば、予想もしていなかった事態が起き、そのまま一気にラストの謎解きへ。次から次へと、まるでジェットコースターのように振りわしてくるストーリーだった。

 

書架の探偵 (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

書架の探偵 (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

 

 

 

2017年観た映画(その2)

9月に観た打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?

 本当は観る予定ではなかったのだけどなんか思い立ってふらっと観に行った。夏の終わり。研究がうまくいかなくてつらみが募り、癒しを求めていた。

 

打上花火 (初回限定盤)(CD+DVD)

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 感想は「いい映画だとは思う。でも好みではない」。夏の思い出と共に想起されるガラス細工のように繊細で鮮やかな映画だった。夏の儚く爽やかな部分だけを切り取ったような映画。こういう映画を好きになれたらいいなとは思うけど、あまりに繊細でひたむきすぎて私は少し気後れしてしまう。夏のアニメ映画はだいたい好みではない。私は薄暗くて孤独で圧迫感のある、あるいは野蛮で暴力的で狂気を孕んだようなお話や映画を好きになりすぎてしまった。

 冒頭の自転車で登校するシーンが一番お気に入りだ。ここで私の持つ全ての哀愁が引き出されて来たと言っていい。私はあまり普段から昔に戻りたいなあとは思わない人種なのだけど、このシーンでは高校の頃、夏の暑い中を友人たちと自転車で登下校していたさまが鮮明に思い出された。きつい日差しとムッとする湿気、途中にある田畑の土の匂い、たまに頰にぶつかってくる羽虫の感覚まで。いつも何かくだらない、だけどとても面白いものについてけらけら笑っていた。笑うために生きているような存在だった。そういう感覚が一気にせり上がって来て、あの頃に戻りたいなと一瞬だけ思った。

 あとは、水の表現が良かった。本当に爽やか。ヒロインのなずなにホースで 水をかけられるシーン、プールで水泳するシーン、海上のレールを電車が滑るシーン、夜の海に二人で飛び込むシーン。

 いくつかのシーン、例えばなずなが電車の中で急に歌い始めたり、ラストに二人が海の中で手を取り合う場面では、私は一体何を見せられているのだろうかと思った。だいたいこういう類のアニメ映画ではこのように我に帰る瞬間がある。嫌な体質だと思う。アニメ映画を見ない方がいいのかもしれない。でも『虐殺器官』の映画は好きだったしあれは実写ではなくアニメでないといけないと思う。感性の問題なのか。全然関係ないが野崎まどの『know』がもし映像化するなら絶対にアニメでお願いします。あの色彩はアニメでないと出せない。

 結論。雰囲気は好き。音も映像も素晴らしい。ストーリーもよい。だけど好みではない。私に夏のアニメ映画は向いてない。

 

6月に観たメッセージ

 たしか6月上旬かその近辺だったと思う。ツイッターでフォローしているSF界隈の人がすごくいい映画だと言っていたので観に行った。原作小説は買ったもののまだ読んでいない。早く読まなければ。

 

 

 観に行った結果、これは本当に好きな映画だ、と思った。すばらしい。アホみたいに面白かった。映画館で観ることができ本当に良かった。

 ジャンルとしてはファーストコンタクトSF。謎の物体が突如として現れ、世界中が混乱しつつも目の前の謎に少しずつ迫っていく。

 どこが好きなのかというと、圧倒的な静けさや不安が味わえることだ。例えば、謎の物体が初めて現れた日の夜。主人公は大学で言語学の教授をしている女性なのだけど、講義中に謎の物体についてのニュースが流れ、非常事態として大学中の講義が中止になり、家に帰る。独り暮らしの薄暗い家ではニュースを見ながら不安げにワインを飲み、夜になってもテレビをつけたまま毛布にくるまって寝る。空にはヘリコプターの音が絶えない。とても安眠できる気はしないもののとりあえず眠りにはつける、だけど起きても非常事態は続いているまま、誰に強要された訳でもないが言いようのない焦りと不安に駆られる。私はこのシーンが本当に好きだ。何か得体の知れない、良からぬことが起こった時の様子そのもののように感じられた。『シン・ゴジラ』では実際に対策に奔走する官僚の姿が描かれていたけれど、ただゴジラに怯えるしかない普通の人々はこんな風に夜を過ごしていたのではないだろうか、と連想した。

 それから、主人公が初めて謎の物体の内部に進入するシーン。万全の対策として宇宙服のような防護服を着てヘルメットを被り、ゆっくりと謎物体の中に入っていく。ここで主観視点のカットが入り、見ているこちらも息がつまるほど緊張感を高められる。圧倒的な静寂の中、唯一聞こえるのは自分の震えた呼吸音。分厚い防護服とヘルメットで周囲と隔絶された孤独感。周りには仲間がいるのに、一応安全であることは確認済みなのに、まるで深海にポツンと放り出されたような感覚に支配されるところは『ゼロ・グラヴィティ』を思い出した。暗い映画館の中、私もそのシーンで一緒に息を震わせ、得体の知れない未知の存在に身構える。

 非常に貴重な体験ができたと思う。

2月に観た虐殺器官

 去年のことかと思いきや、意外と今年の出来事だったのでビックリしている。最近一年が早い早いとよく言うが、本当は覚えているよりもずっと多くの時間を私たちは楽しんでいるのだろう。

 

 

 Project Itohの映画三部作のうち、他の二作『屍者の帝国』『ハーモニー』の映像化は今ひとつ不発だった印象もあり、正直あまり期待はしていないつもりだった(楽しみにしてはいた)。だが実際はかなり面白かった。原作を読んでいても楽しめたし、読んでいなくても楽しめると思う。

 全体の作りとして、役者さんが感情をあえて抑えているような演技をしていた気がする。特に主人公クラヴィスの始終淡々とした感じが意外だった。私の中では主人公はもう少し感情的で繊細な少年のような感じで、他者からの影響を受けやすいキャラクターのイメージを持っていた。声優の中村さんはその辺りの演技上手いはずなのに。だけど今作の監督やスタッフにとっては戦場に向けて感情調整されている彼らがこう解釈されたのだ。これはこれで正しい解釈だと思う。彼らは私たちとは違う感情システムの上に立っている。非常に均整のとれたメンタルで、だけどいつも心ここに在らずといった風に戦場へ向かう、そういう解釈だ。小さな違和感、そこから感じる不気味な雰囲気。

 あと特に覚えているのはリーランドの死に際。ここは原作小説を読んだ時にも衝撃的で印象に残ったシーンだった。ここも登場人物たちの感情が大きく揺さぶられているような表現ではない。観客だけがその違和感に気づいてゾッとする。そういうつくりなんだろうと思う。

 その後も色々となんやかんやあって、最後のエンドロールでegoistの『リローデッド』が流れた時、なぜか感無量みたいな気分になった。この映画は当初の制作会社が破産して公開が延期になったことがあったのだ。その結果主題歌のCDだけが先に販売され、私はそれを聴きながら「どんな映画になるだろう」と夢想していた。そのせいかもしれない。

 後で知ったのだけど、実写映画化の予定もあるらしい。続報を待ちつつそちらも公開されたら観に行きたい。

 

レンタルで観たベイマックス、ハンガーゲーム2、バレンタインデー

 正直この辺りは本当に覚えてないので(多分観たのは1,2月くらいだった)ほとんど書くことがない。ベイマックスは癒された。ハンガーゲーム2はイマイチだった。バレンタインデーは最後のネタばらし(のようなやつ)に少しビックリ。

 

 やっぱり映画は映画館で見た方がよく覚えているし何倍も面白く感じると思う。多くの人が知っていることだとは思うが。おわり。

2017年観た映画(その1)

 ふと、「最近映画何観たっけ……?」と思ったので、少なくとも今年のうちに観た映画だけでも整理しておきたい。本は何度か読み返したりもするが、映画は基本的に一度しか観ないため結構内容を忘れてしまうので、ここで感想などを記録していくことにする。映画館で見たものはもちろん、DVDレンタルやHuluなどで観たものも含めて思い出せる限りの記録を残していきたい。
 今更ですが、当ブログの本や映画の感想にはネタバレが含まれていると思いますので注意してください。完全に興が削がれるほどのネタバレはしないよう配慮してはいるつもりです。

11月4日に観たブレードランナー2049

 記憶に新しい。この時は修論中間発表の直前だったけれど容赦しない、絶対に見てやるという強い意志があった。

 感想としては、可もなく不可もなく、という感じ。だいたい『ブレードランナー』の原作映画はオマージュ作品が多すぎるのだ。今回の続編もその中の一つであるような感覚から抜け出せなかった。なのでどうしても公式な「続編」の実感を持つことが難しかった。これは私の感覚の問題なので、ブレードランナー2049の出来が悪いという意味では全くない。
 まず、お約束の「ブレードランナー的都市映像」に実家のような安心感を感じる。巨大な女性のホログラム広告や日本語が散見される店看板、そこにホバークラフトがブーンと飛んでいく様子、なぜか決まって土砂降り。他の映像作品でも頻繁にオマージュされるアレ。こういう退廃的な未来都市が舞台の話で同じような絵面の映画、ほんと何本あるんだよ……という感じである(例えば『AOUTOMATA』。『トータル・リコール』もこんな感じじゃなかったっけ、これは同じディック原作映画だけども)。開始10分ですでにSF映画の文法を忠実に、押さえるところは押さえていっていることがわかる。こういう演出は観客に「今からこういう種類の映画にしていきますよ」ということを示すマナーみたいなものだと私は解釈しているので、今回もただただ「はい分かりました(そういうのを期待して観にきましたので)」と頷くだけだった。
 御託はともかくとして、ジョイがかわいい。彼女は今作のヒロイン的立ち位置の女性なのだけど、じつは実体のある身体がない、投射されたホログラムの身体だけを持つAIなのだ。でもすごい可愛い。ずっと見ていたい。原作小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の主人公は生きた動物のペットの代わりにアンドロイドの生き物を飼うという話だったけれど、この映画の主人公は生きた恋人の代わりに実体さえ持たない映像の恋人と暮らしているのだ。原作小説でさえ主人公の恋人は生身の人間だったぞ。そう比較してみると、この映画の主人公の不憫さと舞台世界の悲壮さが感じられる。
 気に入ったシーンはいくつかあり、目新しい演出も無くはないのだけど、この映画で一番すごいと思ったのは音だ。殴る時の音が本当にいちいち痛そうすぎる。「うわ痛っ……やめたげて……」ってなる。ホバークラフトの移動シーンで流れるBGMもよい。ズンズンと腰に響いてくるような低音が、息苦しくなるほど緊張感を高めてくれる。この音響を味わうためだけにもう一度映画館で観たいと思える。
 「人間とレプリカントの違いは?」という全体のテーマの一つに対し、今作は新たな要素を加えることでそれを深めていく。深めていこうとしていた。しかしそこに付随するレプリカントの渇望とか、生命に対する倫理観などの深い考察があまり無かったような印象で、SFとしては物足りなく感じた。そういうのを映画に求めるべきではないのかもしれないし、私が感じ取れていないだけなのかもしれない。もう一度観れば新しく重要な何かを発見できるのかも。だけどもう一度観るつもりはない。上映時間が長いので。正直最後の方は腰が痛いということしか考えられなかった。

10月1日に観たダンケルク

 ちょうど入社式のために上京していた時に池袋で観たのだけど、映画の日で安かったため超満員だった。最前列で首が痛くなった。

 こういうシリアスな戦争映画は定期的に制作され上映されるので子供の頃から見たり見なかったりしていたのだけれど(『硫黄島からの手紙』、『父親たちの星条旗』などを映画館で見たのを覚えている)、今ひとつどこに注視してどのシーンで感動すればよいのか子供心に分からなかった。私は映画というものを完全なjoy的な意味での娯楽だと思ってきたため、こういうカテゴリーの映画はテーマが深刻すぎていささか手に負えない(戦争映画ではないかもしれないが『戦場のピアニスト』だけはとても好きだった)。
 だけど、ダンケルクはそういう私の先入観を良い意味で壊してくれた。ダンケルクでは単なる戦争が繰り広げられていたのだ。そこにあったのは戦時中の人間ドラマや悲惨さを強調させたストーリーではなく、単なる戦争、それだけだった。上映中、私はただそれをずうっと眺めていた。それは何かに注目して見ないといけないとか、ストーリーを追わないといけないとか、登場人物たちの境遇に同情し涙しなければいけないとか、そんなこととはまったく別次元の体験だった。別に無理して何かを考えなくてよいし、何かを感じなくともよい、ただ観るということ自体に価値がある。とてもシンプルなことだ。これはそういう映画だと思ったし、本来戦争映画はそうやって観るものなのだと教えられた。

4月9日に観たゴーストインザシェル

 様々な期待と不安を伴って見にいった映画。絶賛就活中。多分浦和とかその辺りで観た気がする。攻殻シリーズで私が見たことがあったのは押井守劇場版攻殻機動隊攻殻機動隊S.A.C.、攻殻機動隊S.A.C/SSS、イノセンス、本当の原作である漫画版は読んだことがないので読まなければと思っている。アライズは認めない。

 字幕で見たのだが、演者の英語よりビートたけしの日本語の方がよほど聞き取りづらかったのが強く印象に残っている。滑舌どうにかして。ビートたけしの台詞には確か英語字幕が出ていたのでそれを読んでなんとか理解していたように記憶している。
 よく覚えているのは、攻殻機動隊の映像作品で象徴的な映像を正確に再現しているシーンがいくつかあるところ。ストーリーが違うので完全一致というわけでもないが、結構テンション上がった。あと覚えているのは少佐が実家を訪れた時に飼い猫から自分の正体に勘づくところ。あのシーンは映画『マトリックス』で黒猫の様子から「デジャヴ」に気づくシーンを思い出した。印象に残っている。
 上映中、最初の方はとにかく「コレジャナイ」感が強くて、だけど映像の再現度は完ぺきだったのでなんだか電脳をハックされてそれとは知らないままゲテモノを美味しく食べさせられているような気分だった。だけど不思議とストーリーが進むにつれて認識のギャップが無くなってくる。ああ、これもアリだな、と。そして最後の「私は自分が何者で、何をすべきか知っている」という台詞、そこから攻殻でお馴染みのテーマ曲からのエンドロールにはグッときた。私のゴーストにグッときた。それだけで全て許せる。「これはこれで、大いにあり。様々な重圧と困難が有ったろうに、原作へのリスペクトと創作への勇気を持って攻殻の新しい1ページを開いた製作陣に感謝」と思う。アライズは絶対に許さない。

黒猫の接吻あるいは最終講義(森晶麿)

 日曜日に一気に読んでしまった。この人の本はサクサク読めるところが良い。最近はウンウン唸りながら時間をかけてじっくり読むような本ばかりを選んで同時並行的に読んでいるので、こういった話を読むのは楽しかった。
 シリーズ二作目は主にバレエという題材を中止に、それらと黒猫の専門であるマラルメやポオ作品に対する美学の共通点、メタファーの解釈を行なっていく。これはミステリというより恋愛小説だな。主人公の女の子の行動原理が、完全に「黒猫」(想い人)に対する恋愛感情から来ているからだ。だがまあそんなことはどうでもよくて、今作も相変わらず黒猫が様々な作品や概念をスマートに解説していくのが心地よかった。
 優れた芸術作品は分野を超えて他作品に影響を及ぼす。その根源となるような概念があり、そこから特定の美術形式に向けて表現が抽出される。それが黒猫いわく“ベルクソンの図式”なのだという。芸術家はその作品を介してインスピレーションを及ぼし合い、絵の得意なものは絵で、作曲ができるものは音楽で表現する。そういえば夏目漱石もイギリス留学の際に現地で鑑賞した絵画を題材とした作品を執筆していたっけ。そんな数ある芸術の中でも特にバレエというのは特殊で、踊り子それ自体がすでに抽象化された概念となっているのだという。プリマが表現するのは人生そのもの、人の普遍的な感情そのもの。バレエの舞台がそのままベルクソンの図式として機能する。舞台が絶え間なく変化していくように、本来ベルクソンの図式も時々刻々と姿を変化させ得るもので、黒猫はそれを遊動図式と名付ける……と、いうのが私の理解だ。サクサク読めるだけに内容をゆっくり検討できたわけではないけれど、概ねそのようなことを言っているのだろうなあと思いながら読んだ。

 バレエといえば、ドガの『エトワール、または舞台の踊り子』を思い出す。以前読んだ中野京子の『怖い絵』に出てきた絵だ。その本の中では、19世紀ごろのパリのバレエというのは貴族男性のための娼館の機能が大きかったと書かれていた。そのイメージから、私は創作物に登場するバレリーナに対してそのようなある種の陰惨さと悲劇性を期待してしまう。あるいは映画の『ブラック・スワン』、役に取り憑かれたバレリーナの内面に潜む狂気が描かれた映画だ。『黒猫の接吻〜』には愛美と幾美という二人のバレリーナが登場するが、彼女らの表裏一体の関係や、プリマという重圧に狂わされていく様子が重ならずにはいられなかった。なぜ人々は華やかなバレエの裏に狂気や悲劇を見てしまうのでしょう。誰かその謎を解明するためにアマゾンの奥地へ飛んで欲しい。なんてね。

黒猫の接吻あるいは最終講義 (ハヤカワ文庫JA)

黒猫の接吻あるいは最終講義 (ハヤカワ文庫JA)

怖い絵 (角川文庫)

怖い絵 (角川文庫)